このサイトを作るための、それぞれの店へのインタビューに先立って、この地に、こういう飲み屋街ができた当初から、ここで生きてこられた、三光商店街振興組合理事長のE・Oさんの、店を始められた頃の話を聞かせてもらった。

 結婚後5年で夫を病気で亡くし、男の子をかかえて、お嬢さん育ちのE・Oさんが、終戦後間もなく新宿通り沿いの二丁目道端で、郷里山形から、食料を担いで来ては、屋台で売ると言う商売を始め、大繁盛したそうである。

 当時E・Oさんは、今のゴールデン街すなわち旧三光町の一角に、四国の地主さんから土地の管理のため頼まれて住んでいた。その後マッカーサーの撤去命令により二丁目の屋台も移転を余儀なくされたが、E・Oさんが住んでいた所の回りは、既に区画整理の対象になった新宿駅の和田マーケットがこちらに移転してきて様々な商売をしており、E・Oさんもこれにならって住居を改造して食料を売り始め、その後ほかの店と同様に飲み屋に変わってゆく。

 昭和30年代になって、地主が税金としてその土地を物納したため、大蔵省が借地人であったE・Oさんに買わないかともちかけたので、親戚からお金を工面して7万円で、30坪の土地を買った。

 当時から今で言う風俗営業を兼ねた、所謂、公的売春の“赤線”に対しての、ここらあたりは、“青線”地帯とよばれた店が、所狭しとひしめきあうことになったそうである。

 つい最近の80歳になるまで、現役のママさんだったE・Oさんは、釣りが大好きで、朝釣ってきた魚を店で調理しては客に出し、お袋の味が魅力の店だったようである。今はママも代替わりしているが、未だに前からのお客さんが、「かあさん、いるか」と訪れると、店に出て、楽しい一時を過したりもするようである。

 E・Oさんの、初めてお会いした時の、きりっとした厳しい表情と、話をきいているうちに見せてくれた、なんとも言えずチャーミングな口元で微笑み返してくれる表情は、幾多の修羅場をくぐりぬけて闘ってきた、当に“おお大人の貫禄”という感じがした。

 不思議と、ゴールデン街のマスターたちが、「いろいろやって、楽しくここまでやってきました」というイメージがあるのに対して、ママたちは、みな、雄雄しい。なんだか、凛々しい感じがする。

 まだ、ゴールデン街の暖簾に、手をかけさせてもらったばかりくらいの、初心者だが、ゴールデン街で、人生の手練に相手をしてもらう魅力に、はまってしまいそうである。(Y・S記)
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