宇多田ヒカルのニューアルバム『ディープリヴァー』の宣伝ポスターの背景として一躍人気になったゴールデン街、また俵万智さんが社会勉強のために時々働いていることでも有名になったゴールデン街。若者がオシャレ!といって集まり、宵ごしのお酒を楽しむ街。でも数軒離れた店では「寄っていかない!」と声がかかり、流しのギターに合わせた歌声も聞こえてくる街。そして、今170ともいわれるその店の数の多さ。

 昭和20年8月15日の終戦後間もなく、新宿駅の東側で関東尾津組が闇市第一号である”新宿マーケット”を開店した。そのあと更に和田組が武蔵野館から南口へかけて開いた和田マーケット、新宿西口ぞいに安田組が展開した民衆市場と二つの露店市場が続いた。

 昭和24年、新宿マーケットから名を変え、屋台による一杯飲み屋街へと変貌を遂げていた竜宮マートに、占領軍による露店取り払い命令が出て、仕方なく移っていった先が旧三光町一帯であった。この町が町名変更で今は歌舞伎町1丁目となったゴールデン街である。

 当時はすすき野原で、建設途上の新宿区役所のほかは建物もなく、いま「四季の道」と呼んでいる遊歩道は、都電の引込み線が走っていたところである。

現「突風」が昭和33年「トップ」として開業した時の風景
 そしてこの街には、古くからの遊郭である新宿二丁目で露天を営んでいた人々も、移転命令により大勢移ってきた。この二大勢力によりこの街は生まれたのである。そして以後昭和33年の売春防止法ができるまで、”青線”と呼ばれる非合法売春地帯として隆盛を迎える。(ちなみに赤線、青線ともに警察が地図上に赤色、青色の線でその地域を囲ったことに由来している)

 この街にはテナントさんの組合が二つある。一つは南側に位置する「新宿ゴールデン街商業組合」、もうひとつは北側にある「新宿三光商店街振興組合」でこちらは地主さんも組合員である。新宿ゴールデン街商業組合」の方は4.5坪の店が多く、「新宿三光商店街振興組合」は3坪の店が多い。建物は4戸で一つの連棟式つまり棟割長屋になっており、その連棟と連棟との間を細い路地が通っている。お客はこの路地を通り抜け自在に店をはしごできるため、はしご酒の楽しみがこのゴールデン街の特徴ともなっている。

 3階建ての建物が多いが、外の階段から2階へ行く構造のものと、内階段になっているものがある。内階段のものは、当時は1階がバー、2階が経営者の住居と泊り客の部屋、3階がいわゆる<ちょいの間>で、布団がやっと敷けるぐらいの部屋が二つで、その間は驚くほど薄いベニヤで仕切られている。

 今残っている建物に入ってみると、2階から3階へはほとんど垂直に近い梯子を上らなければならず、しらふでも恐いと思うぐらいで、酒に酔っての上り下りでは、転落したお客さんも少なくなかったのではなかろうか。現在も2階3階を住まいにしている方が少なくない。

 防止法以降は飲み屋やバーとして再出発していき、昭和40年ごろゴールデン街という通称が生まれた。しかし、今のコマ劇場のあたりから歌舞伎町2丁目にかけての一帯が日本最大の歓楽街へと発展し隆盛を迎えたのに比べ、ゴールデン街の方は権利関係の複雑さや地回りヤクザの縄張りといった問題のため、開発の波からは完全に取り残されてしまった。
 当時、ゴールデン街は知る人ぞ知るという街で、作家、詩人、漫画家、映画、演劇などの文化人が夜な夜な、安酒を飲みながら議論に明け暮れるという界隈であった。

その中でも、特に有名だったのが「ばあ まえだ」で、今も看板だけが残っている。名物ママ前田孝子さんのもとに、多くの有名人が集まり、このバーで酒を酌み交わした。田中小実昌さんの著作『新宿ゴールデン街の人たち』にも前田ママのエピソードが愛情込めて語られている。

 このゴールデン街が一躍全国の脚光をあびたのが昭和51年、作家の佐木隆三が直木賞、中上健次が芥川賞の受賞者に決定した時である。

 この二人の作家の夜のフランチャイズとして新宿ゴールデン街が新聞に詳しく紹介され、この街からスターが誕生したと報じられたのである。この頃から文化人たらんとする人間にとってゴールデン街に馴染みの店を持つことは必須とみなされるようになり、この街は最盛期を迎えることになる。「不夜城」の著者である馳星周さんも上京後この中の店で働いていたという。

 昭和60年代に入り、この街もバブルの洗礼を受けるようになる。この地の開発を夢見た業者が銀行からの融資をジャブジャブ受け、たった3坪か4.5坪の土地と30年もたったボロボロの建物を億単位で買収してゆき、立退き料は1,000万円が相場という、異常な時代であった。

 全盛期200軒以上あった店が140軒にまで減った。今でも通りを歩いてみると、入り口に鍵がかかったまま朽ち果てたような店がいくつもある。このままゴールデン街も衰退し、終わった街としてかえりみられなくなるのかと思われた。

 ところがである、数年前からポツポツと若い世代が斬新なコンセプトで店を開くようになり、同じ世代のお客が増えてきた。一方永年ゴールデン街のお客であった人が、立場変わって自分で開いたという店も稀ではない。もちろん古い店が立ち行かなくなり閉店することも珍しくないが、新規出店も2001年の1年間で10店以上にのぼっている。定期借家権の創設などもあって、所有者が物件を積極的に貸し出すようになると、出店希望者が順番を待っているという状況だそうである。

 しかし老舗も健在である。演劇やマスコミの関係者が集うとして有名な店も多いし、全共闘世代と思われる会社役員が高等遊民について議論している店だってある。

 オーナーの世代交代が進み、ここがニューウェーブといわれる若い世代中心の街になるのか、それとも老舗と新しい店が新しい調和を生み出し、新たな街を形づくってゆくのか、建物の老朽化との闘いも含めて、当分目が離せない。
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