「G街愛」あるいは「Gスポット」37年史 |
|
|
第1回「初めの一歩」 |
|
|
泣く子も黙るあのS興業のS目社長さんから「書いてみ」って言われましてね、この度、若いG街族の方向けに、僕の「新宿ゴールデン街」メモリーを書くことになりました。よろしくお願いします。
僕の通り名は「のべちゅう⇒のべっち」。
(筆者注:当人は55歳・貧乏映画屋・福岡生れ・東京在住暦48年・好物「言霊」「麺/丼研究」)
(渾名「のべちゅう」は本名が由来なのだが、皆「のんべ・アル酎」の略と思ってる)
僕の「G街」デビューは1967年3月28日頃。
だから今年の春で、わが「G暦」は紀元37年をむかえた(はずだ)。
あれから、いったい何回出撃し、何回轟沈したことやら。
しかし、ともかく、今これだけは言える。
本当の僕を一番見てきたのはこの街。
僕がいなくともこの街は何ら変わらない。
が、G街がなかったら今日の僕はなかった。
そんな訳で、僕の「Gスポット体験37年史」、若きGメン諸氏に謹んでご紹介させて頂きたい訳です。
われながら「G街デビュー」は早かったが、新宿デビュー自体は、50年代の小学生時代からであった。
当時、千代田区九段4丁目15番地の九段小学校生だった可愛い僕は、元・紀伊国屋横丁入り口にあった模型屋に都電、または歩きで通ってた。
理由は、マルサン・プラモ戦闘機30円シリーズが発売されたからだ。 (‘59年頃? なつかし〜)
ちなみに「少年マガジン」と「サンデー」もこの年の春、同時創刊された。(あれからずっと読んでるよ)
その後高校生になった僕は、土曜の夜となると歌舞伎町の「ゴーゴー喫茶⇒ホール(死語)」に出没した。
1965年〜66年のこと。
初体験店は「チエック」(後「ジ・アザー」〜後閉店)。
寄席の「末広亭」斜め右前・地下にあった、大阪人経営・外人ねらいのあやし〜〜い店。
身長195cmのオーストリア人プロスキーヤーに連れて行かれたのが最初。
堅物の父親に「東京をご案内してさしあげろ」と指令されたはずが、ホモ外人だらけの店で、僕はモーション(化石語)かけられまくりデビューしたものであった。
ちなみにヤクザ系客が侵入するとブザーが2回なり、関係者は刃物他をもって集合するシステムだった。
警察の場合はブザーはならさないで、電気のスイッチを入れた。(店内を明るくするだけ)
余談だが、「ディスコ」と呼び始めたのは68〜69年?頃のこと。
ベトナム戦争がはじまり、フーテン族が出没する直前頃だった。
忘れもしないあの夜が何時のことだったかは忘れた。
突然、聞いたこともない音(エイト・アフタービート)が鳴り始めた。
その前で、横須賀で貸衣装を着込んだフォートップスもどき黒人少年たちが、見たことないステップをふみはじめ、「なんじゃこらぁ。見たことも聞いたこともない」と立ちすくす日本人少年たち。
モータウンサウンドにのれない僕ら日本人は、あの夜から主役の座からころげ落ちた。
そうなる少し前のこと。(ややこしくてゴメン)
新宿でなにかと話題を集める一角があり、そうこうする内そこに「ゴールデン街」看板がおっ立った。
(ような気がする、要・確認)。
東京オリンピックが、東京をTOKYOに変えた。
それとこれとがどう関係するのかは知らない。
が、当時2丁目に棲息していた「ホモ」の方々が「オカマ」に変身し、大挙、歌舞伎町に転進したらしい。その道の業界人が、サラリーマン・ターゲット(一般人相手)のニュービジネスを開始したためみたい。
(この辺僕の推測なので要・調査ですね)
その一部が、旧・青線名残地帯の格安物件エリアに目をつけ「G-オカマ系店」が急増した(みたい)。
当時のG主流派は、昭和33年4月1日起源の、元・青線系「おばちゃんキヤッチ店」だった。
そこに無産インテリ文化人系(含む学生運動系)店などがマッチアップして、恵比寿/高田馬場ラーメン激戦区的に、急速にカオス活況を呈して行ったのが、「東京五輪後G街ムーブ」だったのだ。
勿論、何も知らない当時の僕だったが、そんなGエネルギー波動に本能が反応した。
「高校卒業したら行ってみよ。」と「GoGo」しつつ決心したらしい。
そんなどうでもいい深〜い訳で、確か高校の卒業式から3日ほどたった夜。
友人木村が卒業祝いに親から買ってもらった、しかし本人がまだ袖も通してないスーツを着こんで、僕は晴れて、記念すべき「第1回G街出動」におよんだのであった。
まずは様子をうかがうべしと、裏側からそっと入ろうと、新田裏「じゅりあんそれる通り」の入り口角あたりにさしかかった瞬間だった。一瞬でキャッチされちまったのは。
それはもう、ウムを言わせぬ土佐の一本釣り風豪腕キヤッチであった。
「深海魚」なる2階店に、なすすべもない「鰹」状態で引きあげられちまったのである。
あやうし、のんけ・のべっちの運命やいかに!!
|
|
|
|