「G街愛」あるいは「Gスポット」37年史 |
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第3回「プーさん」?有名人だらけの店? |
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ハイ、最近若い人たちから「G街でどんな有名文化人に出会ったか?」とか聞かれたりします。
確かに60年代後半〜70年代の「G街」は、有名・無名文化人の坩堝でしたし、そどころか、故・殿山泰司・立花隆・内藤陳(現役「深夜+1」)など、有名文化人ご本人も店経営してたくらいですしね。
それが一躍知れわたったのは、75年、佐木隆三氏が「復讐するは我にあり」で直木賞候補となり、マスコミが彼のG街呑み歩きぶりを一斉報道。
一夜にして「G街で飲めば今日から君も文化人」モードに一気・爆入した時からだった。
だけどここだけの話、実はあれは、G街常連マスコミ系による「踊る大操作戦」だったのよ。
「G街領収書を取材費で落とせるようにしようぜ!」情報操作プロジェクトだったのよね。
だけどここだけの話、今の話ウソ。ごめんね。
でも文壇・映画・演劇系から新聞・出版・テレビ系マスコミ人も巣くう、「日本一の文化系のんべG街」が、もしそん気になりゃ、あの程度のこた〜簡単だった(はず)。
要は、「G街」は日本一の文化発信基地(但し潜在能力的に)だったってこと、言いたかった訳っす。
で、有名人客で有名な店は?と問われば、「前田」「こちゃ小茶」「あんよ」「じゅりあん・それる」「突風」「なべさん」 「○羅路(わらじ)」「ナマステ」「クラクラ」「ゆにあん唯尼庵」(旧姓「薔薇館」)「しの」などなど、そりゃ〜もう数え切れん。
でも、兵(つわもの)どもの店数多(あまた)ある中あえて一軒!と言われりゃ、やっぱ「プーさん」だったかな。
G街に有名人引っ張ってきたのは「プー」と「モッサン」と、かの「なべさん」も著述してるくらいだし。 とにかく、店の存在そのものが「有名&無名人間VSトーク磁場」だった。
それじゃわからん?
じゃ行ってみましょ。「復習するは我にあり」の巻。
あれは確か1973年頃。
G街入学して早7年たち、ほぼ「G街」を一巡した僕は、「学費高そうだけど名門私立中も一応試験だけでも受けときたいな」の、小学6年生的心境で、「プーサン」入口扉前に立ってたーとマァそんな次第でありました。
当時僕は無名人だったので(今もじゃ!)、格調高い(富永一郎先生画)の、立灯看板の味わい深い名画
「チンコロ姐チャン」に励まされつつ扉を開ければ、そこはG街名物「至2階急階段」だった。
「TWIN」の倍位急なその「天国への階段」を、こわごわ登り始めた、当時26歳のN氏でありました。
(音楽 71年の大ヒット、ジミー・ペイジの伝説的名曲「天国への階段」かけながら読んでね。)
登ってみれば、店内は何と「G街」最大級の広さ。(平均の2.5倍くらい)
大きな「馬蹄形」のカウンターを、客が皆で「ぐ〜るり取り囲む」レイアウト。
満員だと奥にマスターのいる直線カウンターにもすわれるし、混んでりゃ立ってても楽しいという余裕スペース。
当初は「ボックス席+カウンター」という「古典的バー」レイアウトだったらしい。
でも、この「8時だよ全員集合・上下座なし・相席円卓空間」が誕生して、有名・無名人「円卓の騎士VS会話」文化が開花したのであるが、だけど、その時の僕は それどこじゃ〜〜ない!!
だって、この店、「飛び切り高級店」だって分ったんだもん。
だって、店の最低キープ・ボトルが、何と「オールド」だっつ〜のよ!
だって、当時「G街・標準装備ボトル」は、「トリス」(梅)「ホワイト」(竹)「角」(松)だったんだもん。
例えば「あんよ」の棚にゃ今でも「角ボトル」がギチッと並んでいる。
それは、この店が古き良きG街伝統継承店であり、かつG街「松」(上流)階級店だった「証」なのだ。
あんよも森さんもいなくなっちゃってさみしいけど、店自体はそのままだよ。思い切り可愛い店看板イラストもまだあるよ。「ペンギン村」など「非血縁系二代目店」さん、ぜひ頑張ってG伝統風味を伝えて欲しいものです。
余談だが、70年代後半、日本国中、猫も杓子も「ダルマ(オールド)」だらけになる。
同時にG街にも素人のんべ(お前じゃ!)が急増。それまでの伝統的、「素人・玄人2部授業制度」が革変して行った。
それまで、素人客は終電タイムともなれば、わざとゆっくり店を出て、あと新宿駅までダ〜ッシュ帰宅してたもの。そして、その後、中入り後の「平日・徹夜呑み組」の、プロ取組タイムが始まったものだ。 (プロ志願の僕は当時、序二段格だった。)
ところが、サントリーの日本酒場完全制覇戦略が、おりしもの「カラオケ・ブーム」とリンケージしつつ、全国のスナック素人化現象を招き寄せ、プロ遊び人がリードしていた深夜酒場の主役が、高倉健から高田純二に代わり(例え話だよ)、素人客タクシー帰還(会社経費で落とすくせに)が当たり前となり、つまりは日本全体がバブリー・モード期に入り、おかげで雲助タクシーが我が物顔で横行し、平日でも自腹組がタクシーを拾えない現象が押し寄せ、せっかく、千円以内圏在住の僕の特権は、かっこうの乗車拒否対象に零落。一体何回家まで歩いて帰ったことか、ヂッグショ〜(ママ〜、涙ぐんでるよこの人)って、マ、そんな時代の思い出象徴「ダルマ」初対面場がこの時の「プー」だった次第です。(すみませんでした。つい興奮して)
「予想以上だからヨソー!」と思えど2階だし、先住民客が「見てみぬ振りしながらしっかり」見てるし、
(しかもとびきりいい女混じってる!) (ここで逃げたらもう二度と来れない。)
ああ、「小学校生が大学へ」「序二段の分際で十両へ」的、三階級特進ボトル発注の、人生に二度とはないはずの
「東郷ターン」級決断の瞬間が訪れた..,その時であった。天国からの声が僕に「ささやいた」のは...。
(「イイのよ、心配しないで....!」) ここで「天国の階段」のアコGがエレGに変わる。
当時「チャージ」+「ボトル」で7000円くらいだったかな。
今でも焼酎4合ボトルなら「3000円+チャージ1500円=4500円」の店行ってる僕さ。
高いよ〜。でもね、その後もず〜っと通い続けた僕だったよ。不思議だと思う。
店のメンバーは、大ママ(太田さん=オーナー)とチイママ(たつこさん)とマスター(鈴木さん)とバイトの女の子(平均2名)と、名前忘れたけど高知出身の時速130k級を投げる草野球投手要員 兼 「流しじゃない店専属ギター伴奏者」の若者というG街最多級スタッフ編成店だった。
何しろスタッフで一番地味な「鈴木さん」まで、テレビの素人相撲(女相撲も)があれば必ず「行司」で出演していていたくらいの「無名の有名人」の代表みたいな人だった。
加えてスタッフだか常連だかお友達だか「識別不能の常連客」が多かった。
その常連客たち自身がですね、有名人以上にユニークな「一騎当千・無名プロ」人だった。
長唄の杵屋勝哉先生は、芸大出のオカマ風メチャ・チャーミング・マインド保持「常連の鏡客」だった。
後に「プー引越」以来、ぷっつり通わなくなった僕に、十数年も賀状と暑中見舞を送り続けて下さってる方だ。
鷲羽山関の写真集を出したプロカメラマンのI氏は、ピンカラ兄弟をおしゃれにしたような美声。
彼の口火切ソングで「プー・のど自慢タイム」がスタートする慣わしだった。
ちなみに十八番は「夜の銀狐」(69年ロスインディオス)たつこさんは「酔いどれ女の子守唄」(73年:加藤登紀子)
まだ「カラオケ」のない時代で、「流し」じゃなく店専属(一人)バンドおくこの店は、当時の高級クラブと同じシステムだったのだ。 今思えば、「流しの時代の終わりの始め時代」であった。
最長老流し「マレンコフ」は今も元気・現役中だ。一度歌ってあげてよね。童謡でもいいからさ。
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