<洗濯物がはためいて>
ゴールデン街のはずれに小舟を漕ぎ出して28年になる。四半世紀ちょっと前のこの街を振り返ってみたい。当時は、すでに使われなくなった都電の引き込み線がまだ入口に残っていて、客は下草が萌える廃線を踏みながらゴールデン街へ入っていった。今の「四季の道」はその名残だ。街の風景は一見変わらないように見えるが、1976年頃のゴールデン街の露地裏にはまだまだ生活の匂いがあった。洗濯船の右隣は「魚繁」という魚屋さんで、土用の丑の日ともなると店先で鰻をさばき、蒲焼きの煙を威勢よく団扇であおいでお客を呼んでいたし、左隣は「あさま」という焼き鳥屋さんで、お酉様の日には熊手を肩に担いだ人々で賑わっていた。八百屋さん、雑貨屋さん、煙草屋さん、ラーメン屋さんも露地に店を出していて、お通しの材料や割り箸など商売に必要なものを買い揃えることができた。店をやりつつ生活している方もたくさんいて、丹精込めた植木が道端に置かれ、ふと見上げれば洗濯物がはためいていたり、子供の遊ぶ声が聞こえたり、床机に腰掛け談笑していたり、下町のようなくつろいだ風景がよく見られた。現在、撮影スタジオに使われている「ホテル石川」のあたりには「花園湯」という銭湯もあったそうだ。質屋さんの看板も記憶にあるから、飲み代の足りなくなった客が時計や免許証を質草にお金を借りたりしたのだろうなあ。
今はなくなったお店のそれぞれに思い出はいっぱいあるが、また新しく誕生したお店にもそれぞれの歴史が始まると思うとワクワクする。この街の扉の内側は表から見るよりずっとエネルギッシュで、あたたかな会話が交わされている。
<内藤新宿のにぎわい>
一気にもっと昔の新宿にコマを戻してみる。江戸時代、内藤新宿と言われていた頃だ。大木戸から太宗寺を経て、追分、鳴子までの街道沿いに、文化五年(1808年)の頃で旅籠屋が五十軒、引手茶屋が八十軒とあり、幕末まで宿場女郎の街としてかなり栄えていた。遊郭の本場吉原に比べてもひけを取らない美しい遊女がいて、茶屋の構えも立派だったらしい。現在の新宿通りから青梅街道沿いの一帯だろう。 吉原の遊びに飽きた者が繰り込む駕籠屋も繁盛し、夜通し焚き火をして客待ちをしていたという。
三田村鳶魚の「江戸の旧跡 内藤新宿」にはこんなことが書かれている。「大木戸の手前の横町、右に左にも入ったところに湯屋があって、その二階でいろいろな衣裳を貸してくれる。坊主が衣を脱いで医者になるのもあれば、小士が町人風になる着付もあり、番頭なんぞの類の者で、職人風な着付けを借りて行くのもある。いろいろ変装して、女郎屋に出かける支度の出来るところがあった。これはよその宿々にはない。新宿に限ったことです。畢竟新宿がいろいろな客を引き寄せるから起こったことです。」 (注 小士-武士の中でも身分の軽い者)
客が変装して遊ぶというのが面白い!また廓の内で大名行列の真似をしたという贅沢者もいて、それに使ったお金が二,三千両というのだからびっくり。幕府の耳に入ったが、宿内だけのことということで内分の沙汰になったらしい。また蕎麦屋の竹次郎の話も江戸の人々を驚かせた。太宗寺門前の「山口」という蕎麦屋の出前持ち、いなせないい男で評判の竹次郎が妊娠、出産したというのだ。召し捕って調べたら男装した女性だったことがわかり、江戸中の大評判になった。月代(さかやき)も青々と、半纏股引姿の竹次郎の男振りは宿場中の飯盛女の憧れだったらしい。内藤新宿の艶っぽいざわめきが聞こえてきそう。今の新宿のルーツをみるようではありませんか!?敷居が低く気取りのない、ばかばかしいほどの遊び好き、そんな江戸前の流れが新宿の街に脈々と続いているのですね。
今年のお花見の頃には内藤さんちのお屋敷跡で、老いも若きも、生業が夜の人も昼の人も、男装の人も女装の人も、この国の人も異国の人も、お弁当を拡げ、春の光の中、ほろ酔いで櫻吹雪を浴びるのだ。待ち遠しい!
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